「子供の頃に音楽の一つでも学んでいたかった。」
ライブやコンサートにいくたびにこのようなことを思う。
JAZZは好きだしライブにもよく行く。
クラッシックは特段詳しくはないが、どの曲が好きかはわかる。
「聞く側」としての視点で、最低限の楽しみ方をしてきた。
感動したらスタンディングで拍手を送る。
つまらなかったら寝てしまう。その程度の楽しみ方だ。
オーディエンスのとしてのお作法的に、
自分の感性の浅さを恨むことはある。
もし、自分の音楽的背景がいまより少しでもあれば、
もう少し音楽を正しく味わうことができるのではないかと思う。
去年の話になるが、ふと弟に誘われて
毎年三島で行われる三島現代音楽祭に参加した。
弟はクラッシクギター一本でヨーロッパを渡り歩いてきた。
ドイツのベルリンやオーストリアのザルツブルクで音楽を修めてきた。
彼の親友がこの音楽祭の主催者だそうだ。
三島にもあまり行かない。
音楽にも造詣が深くない。
現代音楽など聞いたこともない。
逆にその組み合わせの響きに惹かれて、行くことを決めたのだ。
そしてライブ自体が久しぶりだ。
このコロナの状況下で、ライブには長らく行っていない。
コロナ禍で最も被害を被ったのは、サービス業とパフォーマー(アーティスト)だ。
ライブパフォーマーはオーディエンスがいないと成り立たない。
なんでもオンラインでできる時代においても、
同じ空間を共有しないと振動しない感性というものがある。
そのような問答をしながら現地に向かった。
現代音楽という響きに文化的格式を覚えつつ
音楽と正面で対峙したのだが、
これがすごかった。
ある曲の終盤で涙が止まらなくなったのだ。
涙を流すという現象の前には、
「悲しい」であったり、「嬉しい」といった
人情的感情が興ることが多い。
感情の波の後にくる生理現象としての涙というものが
一般的な涙では無かろうかと思う。
しかしながら、今回流れた涙は極めて純度が高く、
人情的次元よりももう一段階か二段階ほど原初的な感動によるものだった。
絞り出すような涙ではなく、そのまま重力とともに流れ落ちるような涙だ。
たしかに曲のテーマが明快なのはありがたかった。
シネマチックで情景的な印象を覚えた。
初心者にも優しい選曲だ。
しかし、おそらく音楽的な理解が追いついていないだろう「私」が
深く目の前の音楽を堪能しているというのは、
音楽が持つエネルギーに共鳴したからにほかならないと思う。
アートは日常のいたるところにある。
日常からアート要素を除外することの方が難しい。
清涼飲料水のようなライトなアートから、集中して向き合わざるを得ないヘヴィなアートまで。
それらを乱暴に格付けするつもりはないが、
世の中には、純度の高いアートが存在していると思う。
アーティストが伝統を大切にしながら、また技術を研鑽しながら
命をかけて真摯に向き合っている次元のアート。
そこからオーディエンスは何かを感じる。
断片的なインスピレーションを土産として授かる。
全体を隅々まで把握することは難しいが、十分にありがたい。
音楽と向き合ったその時間は、感覚に対する強い肯定が存在した。
「美しいものは正しい」というのはいささか強い表現だが、
その空間では、美しいものは正しいと感じた。
美しいものを求めても良いのだという強い肯定の感覚があった。
芸術家の生き方というのは
あたかも聖火ランナーが
雨風の中、手にした炎を消さないように走り続けているかのような
そしてその火種をオーディエンスに焚べているような
尊いものなのではないかと感じた。
資本主義社会において、
芸術の価値は軽んじられているのではないか。
投資としてのアート。
あるいは富者にとってのエンタメ。
芸術の本来的な価値を考えたときに、産業としての規模が小さすぎる。
僕の周りのアーティストは苦労が多い。
創作活動やパフォーマンスだけで食べていける人は一握りにすぎない。
多くがバイトをしながら、仕事をしながら芸術活動を両立させている。
自分に何ができるかはわからないが、少しでもサポートができれば嬉しい。
そしてもっとアートに触れたくなった。
コンサート後に三島のうなぎを食べながら
そのようなことを考えた。
この味もまた芸術。
LOTUS 矢野