Art is the highest form of hope.
現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター展へ行ってきました。
場所は東京国立近代美術館。近代美術館は久しぶり。
現代アートの巨匠の展覧会ということで、前々から気になっていましたが、ようやく行けました。
会場構成をご本人が手掛けた大規模展ということで、私の知人周りでも話題になっていた。
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)
1932年、ドイツ東部、ドレスデン生まれ。ベルリンの壁が作られる直前、1961年に西ドイツへ移住し、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学ぶ。コンラート・フィッシャーやジグマー・ポルケらと「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動を展開し、そのなかで独自の表現を発表し、徐々にその名が知られるように。
その後、イメージの成立条件を問い直す、多岐にわたる作品を通じて、ドイツ国内のみならず、世界で評価されるようになる。
ポンピドゥー・センター(パリ、1977年)、テート・ギャラリー(ロンドン、1991年)、ニューヨーク近代美術館(2002年)、テート・モダン(ロンドン、2011年)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク、2020年)など、世界の名だたる美術館で個展を開催。現代で最も重要な画家としての地位を不動のものとしている。
会場に入ると、一つ一つの絵が圧倒的な存在感を放っている。
ディテールと全体性、そして原色の重なり、テクスチャーが分厚く重なり混ざりあった原初的な存在が、強力なイメージとして鑑賞側を圧倒してくるのを感じた。とにかくそのレイヤーの重なりが厚い。
一つ一つの作品を眺めているうちに、「見る」という行為が大変重みのあるものに思えてきた。
普段鑑賞するときは、まずわかりやすい感情や知覚が表層に浮かんでくるので、そこを頼りに印象を掘り下げていく。
目の前の数本の糸を手繰り寄せながら、絵の本質的なところに近づいて行く作業だ。
しかしながら、リヒターの絵には、その肝心な糸がない。
わずかな具象を求めてキャンバスの中を探っていくが見つけることはできない。
しばらく手がかりが見つからないので、とにかく目を凝らしてじっと見つめてみる。
じっと見つめ続けたところで、なかなかしっくりくる認知回路に入らないため、もはや認識するという行為を諦めた。
脳回路のふろしきに作品の存在が収まらないことに気づいたときに、対象物を知覚と理解の範疇の中で支配したいという欲望は消えた。すると肩がとても軽くなった。
具象がこれっぽっちもないときに、最初は戸惑う。
我々の日常がいかに具象に頼っているかがわかる。
具象を見ることに慣れすぎている。
リヒターの絵の前では、抽象の海で溺れる感覚だ。
光が散乱する水面の下側をのぞく時のように、底を見透かすことができない不安を感じる。
ただそれと同時に、
いくらでも自由に空想を当てつけることができる期待感や自由感のようなものも感じる。
見るということを続けていくと、不安が徐々に晴れてくる。それには時間を要する。
現代アートは難しい。
具象がくずれて、全体性がぼやけている。
境界が不明瞭で、有形と無形を同時に内包している。
鑑賞側の能動性が問われる。
受動的に印象の波を待っていては、よくわからないまま終わってしまうこともある。
そして「きれい」であったり、「美しい」といった単純な反応で結論がまとまらないことがほとんどだ。
アートの表現方法の変遷とストーリー、歴史の流れへの理解があればあるほど楽しめる。
解釈の切り口が無数にあり、さらに鑑賞者の感性と相まって、鑑賞する時に脳内で起きているメカニズムが複雑なのだ。
いや逆に「理解」という粗雑で強引な消化手法などとらず、ただ感性の赴くままに見るのも楽しいかもしれないが。
現代アートの価値は、戦争や経済発展なのど歴史背景や、作者のフィロソフィー、評論家の批評によって決定される。(アンディ・ウォーホルは芸術の価値は市場が決めると言った。)
全く新しいイノベーティブなアートの形が、その後のアートの歴史やその周りの産業に影響を及ぼすものであればあるほどその価値は高くなる。大きな川のように、アート表現のメインストリームというものがあって、踏襲を繰り返しながら流れている。そこから分枝のように様々な支流が流れている。価値が高いアートがもたらす変化は、マイナーなシフトではなく、ドラスティックなものだ。小さな変化を生むことにとどまらず、全く新しい本流を作るという革命を起こす。
そのように考えるとアートにおける価値のつけられ方は、文学におけるそれと似ている。
過去のストリームを踏襲しながらも、無数の実験の繰り返しの先に全く新しいものが創造される。
リヒターのアブストラクトシリーズは、
無骨にも繊細にも無数に厚塗されたインクを削り取り、またさらに重ねていくというスタイルだ。
創造と破壊を淡々と重ねていく姿が浮かぶ。試行錯誤と実験、苦悩が重層的にまみえる。
それでいて人間の意図が入り込む隙間が感じられないほど自然で偶然的だ。
乱暴で繊細で力強い。
偶然を必然的に描いているような精密さがすごい。
奥の大きな展示スペースには、両側の壁面に、
ホロコーストを主題にした大作「ビルケナウ」も展示されていた。
ホロコーストは推定600万人の犠牲者を出したと言われており、目を伏せたくなるような負の歴史だ。
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。テオドール・W・アドルノ(1903-69)
この言葉の真意はわからないが、詩作や芸術活動というものが、ホロコーストを引き起こした人間の文化の枠ぐみと同棲していることに対する嫌悪感から来ているのではないかと思う。
ホロコーストをアートの主題とするにはあまりにも重いテーマだと重い、それなりに構えていた。
しかし実際に対峙してみると気持ちはあまり重くはならず、救いのようなものすら感じた。
なぜかはわからない。あくまで主観的なものであるが。
抽象にしづらい現実(リアル)を、限りなく抽象に近づけることでアートに昇華しているからなのか。
であれば、そんなことが普通のアーティストにできるとは思えない。
向き合うには大きすぎるテーマだ。。Artの概念自体に対する挑戦のようにも思える。
アブストラクトシリーズの解説で、
リヒターは、人間が意図が介入することのできないほど、限りなく自然に近いものを表現したと言っていた。
リヒターにとって、アートは、現実と切り離された美しい理想ではなく、限りなくリアルな人間の本質に近いところにあると考えているのではないだろうか。人間の負の歴史もすべて人間の本質の中に含まれるもので、アートも切り離す事ができないと。
芸術は、人間のごく自然な本性である
だからホロコーストの事件もアートとして表現することができると。
東西ドイツをまたぎ、戦争を経験したリヒターだからこそ向き合うことのできた主題なのかもしれない。
展覧会を見終わったあとは、充足感と疲労感が同時に来た。
ここまで発見と充足感があったのは、ドイツの写真家、アンドレアス・グルスキー展に行って以来だ。
このような展覧会に行く前といったあとでは、物事の見方や考え方が永久的に変わってしまう。
不可逆的な変化だ。
新しいメガネを掛けたように、解像度や焦点が変わってしまう。
LOTUS 矢野